池田信夫「イノベーションの経済学」第2章 イノベーションの思想史

SBI大学院大学がYouTubeにアップロードした池田信夫さんのイノベーションの経済学「第1章 イノベーションとは何か」の続きです。

第2章は「イノベーションの思想史」というテーマです。今回もかなり勉強になりました。第3章が楽しみですね。

イノベーションの経済学

第2章 イノベーションの思想史

第1節 古典派

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「イノベーション」という言葉自体は新しいものだけど、「新しいものを作り出す」という広い意味でのイノベーションというものは、資本主義の最初から存在していた。

産業革命そのものが、ある意味では人類の歴史上最大のイノベーションだったと言ってもいい。

人類の数十万年の歴史の中では、人々の所得は年間数ドルくらいの水準だったし、平均寿命は20〜30年くらい、生まれた赤ん坊は半分以上は死んでしまうというのが当たり前だった。

人々は常に飢えと直面して生きていた。数十万年そういう状態が続いていた。

しかし、1800年前後から急に人々が豊かになって、今のように年間数万ドルという所得を得るようになった。

人類の歴史をカレンダーの1年にすると、産業革命以降の歴史は12月31日の23時半以降というぐらいの、ものすごく短い時間。

つまり、極めて短い時間でここまで大きな変化が起きたということは、産業革命は人類の歴史上最大のイノベーションの1つと言ってよい。

しいて言うなら、その前のイノベーションとは、農耕によって定住生活に入ったということ。

人類のほとんどの歴史、1万年くらい前までは、狩猟生活で数人の集団で移動しながら生活していた。

農耕による定住生活(新石器時代)が人類の歴史の第一のイノベーションとするなら、第二のイノベーションは、17世紀後半〜18世紀に起こった産業革命と言われる新しい生産システム(資本主義と言われるシステム)。

ある意味では、資本主義そのものが人類の史上最大のイノベーションの1つだったと言ってもよい。

資本主義が生まれた頃に、「資本主義が画期的な新しいシステムだ」ということを自覚的に記録に残した人はあまりいない。

そもそもその頃は経済学という概念もなかった。

今でいう、経済学に相当するものを一番最初に作ったのはアダム・スミス。

アダム・スミスは「産業革命」というものを「分業のシステム」だと捉えた。

資本主義以前の封建制の下では、人々は農業を営んでいた。

何かモノを作るにしても、1人の職人が1つのものをコツコツと作り上げていき、その技能は自分の弟子に伝えていく。

畳屋さんなら、1つの畳屋さんの中で完結するという家内工業で人類は数百年やってきた。

それに対し、産業革命で何が大きかったというと、アダム・スミスが「国富論」の中で挙げた有名な例は「ピン」の生産。

ピンを1つ作るにも色々な工程に分かれていて、その工程が1つの工場の中で、それぞれを専門とする工員によって行われるという「工場のシステム」というものが産業革命のイノベーションとアダム・スミスは考えていた。

国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究(上)
山岡 洋一
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国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究 (下)
山岡 洋一
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アダム・スミスが「国富論」を書いた18世紀の資本主義とは一番最初の揺籃期で、工場という設備を作ること自体が大変で、工場を作ることが画期的なイノベーションだった。

19世紀後半のマルクスの頃には、イギリスには工場はいっぱいあった。

多くの工場がお互いに競争して、利潤や価格を競っていた。

マルクスから見ると、労働者を搾取して低賃金で労働者を雇って高い利潤を上げるという資本家の労働者の階級闘争が起こっていた。

マルクスは資本主義におけるブルジョアジー(都市における裕福な商工業者・産業資本家)とプロレタリアート(労働者階級)の対立をネガティブなものと捉えて、プロレタリアートが最終的にはブルジョアジーを倒すという革命論を唱えた。

しかし、マルクスの「資本論」を読んでみると、マルクスは資本主義をネガティブだけでなくポジティブにも捉えていた。

「資本の文明化作用」
農業で暮らしていた封建制の世界に、工場や産業資本が出ていくことによって、貧しい生活しかできていなかった人々が、それなりに豊かな暮らしができるようになる。あるいは、農業を営んでいた農村の人々が都会に出てきて、新しい仕事について、今までよりも豊かな仕事ができるようになる。

このように、マルクスは資本主義というものが近代の西洋の文明を生んだというポジティブな面を捉えている。

さらに重要なことは、マルクスは「イノベーション」という言葉に相当する概念を最初に発見した人と言ってもいい。

マルクスは「資本主義」を「資本蓄積の過程」だと捉えた。

資本家が今まで儲けた分を自分の工場に投資して、その投資した設備を使って労働者を搾取して、さらに資本を上げて、それを蓄積するというプロセスをマルクスは資本主義と捉えた。

このように資本がどんどん大きくなっていくと、今の経済学でいう「限界生産力の低下」が起きてくる。

最初に作った工場は大きな利潤を上げるが、次に作った工場からは、最初の工場のような大きな利潤はなくて、だんだんと利潤が鈍ってきて、最後にはピークアウトすることもある。

また、1つの産業が成功したとなると、同じ産業に多くの競争相手が入ってくる。

たとえば、ボールペンを1つ作るのに、労働者に50円を払って100円で売って資本家が50円の利潤を得ているとする。

その話を知った他のボールペン会社は「うちは90円で売ろう」と90円で売るボールペン会社が入ってくる。

すると、100円で売っていたボールペン会社は100円でボールペンが売れなくなるので80円に価格を下げなくてはならなくなる。

すると70円で販売する会社が入ってくる。

このように、どんどん価格競争が始まって、経済学の理屈で言うと原価である50円まで値段が下がるということが起こる。

つまり、資本蓄積だけでは、利潤が低下していくことは避けられないということを、マルクスが「資本論」で強調した点。

では、どうすれば利潤率の低下を防ぐことができるのか?

それは、50円の原価を40円に下げるような技術革新によって利潤を上げていくという次のステップの産業資本主義にとって非常に重要。

東洋でコショウを買ってきて西洋で高く売るという遠距離貿易では、現地で買った値段と西洋で売る値段差(利ざや)で儲けている。

このような商人資本では、コショウを買う人が増えたら、どんどん利ざやが狭まっていくので、利潤をそれ以上に増やすことはできない。

しかし、産業資本の場合は、技術革新をすることによって原価を下げることができる。そして、それが資本主義がどんどん効率的なものになっていくためのドライブになっているとマルクスは「資本論」の中で書いている。

マルクスが150年くらい前に「資本論」で書いたことは、今でもほぼそのまま正しいと言っていいくらい、イノベーションの本質をうまく言い当てている。

現代の経済学の中でも、基本的にはマルクスの考えたイノベーション論は生きている。

マルクスはイノベーション論の元祖だと言ってもいいかもしれない。

資本論 1 (1) (岩波文庫 白 125-1)
エンゲルス 向坂 逸郎
4003412516

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新古典派経済学とは需要曲線と供給曲線の交わるところで価格が決まるという理論。

つまり、技術とか生産のシステムは経済学の教科書の外側で決まっていて、その決まった環境の中で人々が数量とか価格を決めていく静的な経済学。

ハイエクは現代のイノベーション論の元祖の1人。

ハイエクは需要と供給を均衡するメカニズムといったように市場を捉えないで、市場によって情報が伝達されていくという側面を重視した。

社会主義のように官僚が社会全体をコントロールして、官僚が需要と供給をめんどうみたり、物資を供給するとった社会主義のシステムは破たんすると20世紀の初めから言っていた。

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)
池田 信夫
456969991X

「イノベーション」という言葉を初めて使ったのはシュンペーターなので、一般的にはイノベーションというと、シュンペーターが元祖だと思われている。

シュンペーターが特に重要視したのは「創造的破壊(Creative Destruction)」という概念。

この概念が、その後の経済学の中では、ほとんど唯一、イノベーションを経済学者が語った理論として残っている。シュンペーター以外の人のがイノベーションを語ったことはほとんどない。

経済発展の理論—企業者利潤・資本・信用・利子および景気の回転に関する一研究〈上〉 (岩波文庫)
Joseph A. Schumpeter 塩野谷 祐一 東畑 精一
4003414713

ここまでが19世紀までのイノベーションの議論。

第2節 大企業の時代

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20世紀以降、イノベーションはどのように議論されてきたのか。

20世紀には、GMのように様々な自動社会社を買収して大きな企業になって、大きな工場でT型フォードのような全く同じ自動車を何百万台も作るという、大量生産の時代に入る。

大量生産の時代は、イノベーションとは無縁の世界と言える。

たとえば、T型フォードを作る時にはイノベーションは存在とするが、同じものを大量に作る時には明らかにイノベーションは存在しない。フォードはT型フォードを30年ほど作り続けた。

20世紀の最初の時期はどちらかといえばイノベーションはあまり重視されなかった。

それよりも、同じものを大量に作るためには品質管理をしなければならないので、多くの工員を管理しなくてはいけない「テイラー・システム」が重視された。

テイラー・システム型の資本主義においては、イノベーションよりも規模の経済が重視された。

たとえば、T型フォードを作るなら、別々の工場でバラバラに作るよりは、大きな工場で同じラインで何万台も流した方が1台当たりのコストは安く済む。

工場は固定費だから、固定費が1つであった方が、たくさんの工場を作るよりは安くなる。

20世紀初頭は、自動車や石油製品が主流だったので、驚くような技術革新はおこるものじゃない。だから、ダイナミックなイノベーションは重視されず、規模を大きくすることが重視された。

この時代の主張を象徴的に表しているのが、ケインズ。

ケインズは1930年代に大恐慌が起こる少し前に「自由放任の終焉」という有名な論文を書き、1936年には「一般理論」という本で「資本主義は政府がコントロールしなきゃダメなんだ」という考え方を打ち出した。

生産が大規模に行われると企業の工場長や経営者によって管理可能であるし管理した方がいいという考え方になる。この考え方を一国の経済全体に拡張したものがケインズの考え方。

つまり、イギリスという経済を1つの工場と考えると、その工場長である首相がその経済をコントロールしていくという思想。

雇用、利子および貨幣の一般理論〈上〉 (岩波文庫)
ケインズ
間宮 陽介
4003414519
雇用、利子および貨幣の一般理論〈下〉 (岩波文庫)
John Maynard keynes 間宮 陽介
4003414527

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ケインズと同じようなことは経営学の世界でも言われていた。チャンドラーの「見える手(The Visible Hand)」。(日本語の書籍だと「経営者の時代」)

「市場は見えざる手によって動いている。何よってコントロールされているか分からないんだけど、市場で需要と供給が均衡することによって誰もがハッピーになるようなメカニズムがどこかにある。だから市場にまかせた方がいいんだ。」というのがアダム・スミスの「国富論」の非常に重要なテーマ(見えざる手)だったが、チャンドラーは違う意見を言った。

20世紀前半では、企業の生産が経営者や工場長によって隅々までコントロールできるのだから、経営者の「見える手」によってコントロールすることが大事。1人の経営者が集中的に情報を管理して、大部分の何万人もいる労働者は経営者の言う通りに働けばいいとチャンドラーは考えた。

20世紀の半ばまでは、自動車・製鉄・造船・石油科学といった典型的な製造業は大企業が中心だった。

イノベーションの主役は大企業になる。(今でも製鉄などでは規模が大きいことが有利になっている。)

GM、フォード、USスティール、デュポン、AT&Tといった従業員が何十万人もいる企業。

巨大企業では、工員たちが経営者に命じられた通りに、まさに機械の部品のように生産するというのが、20世紀半ばの資本主義の典型的な姿。

この場合の技術革新というのは、たとえば、GMがシボレーの新しい車種を作る時にデザインを少し変えるマイナーチェンジをする。イノベーションというより改良。

このような改良が一番得意なのは、大きな企業で生産の全体を掌握している企業。

自動車なら2万点の部品を全部知らない限り、新しい自動車は設計できない。ハンドルだけ作るというベンチャー企業が現れても競争にならない。

つまり、大企業が技術革新を行うのであって、小さな企業がたくさんあるのは好ましくないとチャンドラーは言っている。

経営者の時代 上—アメリカ産業における近代企業の成立 (1)
アルフレッド・D・チャンドラーJr. 鳥羽 欽一郎

経営者の時代 下—アメリカ産業における近代企業の成立
アルフレッド・D・チャンドラーJr. 鳥羽 欽一郎

ジョン・ケネス・ガルブレイスも「新しい産業国家」の中でチャンドラーと同じようなことを言っている。

現代の企業というのは大きい方が勝ちであって、それをコントロールしているのはテクノクラート(technocrat・技術官僚)。

テクノクラートとは、大きな会社でいうと、財務や技術開発といった細かい手続き的なことをよく知っている人々。ビジネススクールを出て、企業管理の仕方を勉強している。

そういったテクノクラートが企業の主導権を握る。

ある時期のGMのほとんどの経営陣はMBAを卒業して、財務を勉強した財務の専門家だった。

財務の専門家はどんな自動車を作っているとかは関心を持たないし、知識もない。

でも、それでいい。

財務の専門家が見ているのはボトムライン(損益計算書の最終項目)。要するに、いくら儲かったのかに関心を持つ。

良い車を作ったとかには関心がない。とにかく、利益がいくら出るんだということだけを考えるテクノクラートがGMの経営陣を圧倒的に支配した。

これはアメリカの大企業が行き詰まった1つの原因と言われている。

日本車がアメリカのビッグ3の合計を抜いたのも、1980年頃からはじまったテクノクラートによる支配が行き詰まったことにまで起因する。

新しい産業国家 (上) (講談社文庫)
ジョン・K・ガルブレイス 斎藤精一郎

新しい産業国家 (下) (講談社文庫)
ジョン・K・ガルブレイス 斎藤精一郎

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1980年頃にアメリカの自動車産業がダメになったのとちょうど行き違いのように、日本的経営というか日本の会社が伸び始めた。

トヨタ、日産、ソニー、松下など。

1980年頃から日本企業がアメリカにどんどん進出していった。

ソニーでは社長である盛田昭夫さんがウォークマンを考えついた。

当時のウォークマンは再生専用。現場のスタッフは録音もできないテープレコーダーなんて売れないと全員反対したが、盛田昭夫さんは「やれ」と言って、大ヒット商品になった。

この頃の日本企業は、ある種のベンチャー的なところがあった。ソニーの創業者の2人は全くの戦後派。

アメリカ経済にとって、ソニーよりも遙かにインパクトが大きかったのは自動車。

トヨタがアメリカに輸出した自動車は、当時のアメリカの石油がぶ飲み型の自動車ではなくて、小さくて燃料効率が良い自動車だった。

これは、石油ショックを予測して作っていたのではなく、日本は国土も狭いしみんな貧乏なので、そんなにがぶがぶとガソリンを食うような自動車は作れなかった、作っても売れない。なので、やむなく小さい自動車を作るしかなかった。

しかも、日本はアメリカに比べ市場が小さいので、クラウンを作ってもアメリカのように何百万台と売れるということはない。1950年代には数万台しか売れなかった。

クラウンを数万台作ったら、ラインが空いてしまうので、同じラインでコロナを作らなければならない。同じラインで色々なものを作る。

そうすると、1人の人が色々なことをしなければならない。「多能工」。

一見すると、能率が悪いように見えるが、1970年頃から自動車というものは変わってきた。

人々はT型フォードのような同じ型の車を欲しがるということはなくなった。生活様式が多用になり、欲しい車も多用になった。

GMやフォードのように、全く同じ種類の車を大量に作るというシステムでは、お客さんの要望に対応できなくなってくる。

多品種少量生産の時代になってきた。

そして、結果的に、トヨタのシステムは多品種少量生産に向いていた。

また、トヨタを中心にして色々なメーカーがトヨタとは別に豊田市の中にたくさんあって、協力しながらやっていった。いわゆる、系列構造。

GMの場合は1つの会社の中に70万人も雇っていた。70万人の人件費は膨大。

一方、当時のトヨタの従業員は5〜7万人ぐらい。そして、GMの3分の2くらいの車を作っていた。つまり、GMはトヨタの10倍の従業員で1.5倍の車しか作れなかった。

なぜ、それほどトヨタの効率が良かったかというと、下請けと呼ばれる協力企業と一緒に作るという分散型のシステムがある種のイノベーションだった。

1980年代の日本企業は非常にいイノベーティブな時代だったと言ってもよい。

第3節 情報通信革命

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ここからは現代のイノベーションについて。

19世紀の生まれた頃の資本主義は非常にダイナミックでイノベーションに満ちていたが、20世紀の前半は資本主義が一旦成熟して、大規模な大量生産の時代に入って、イノベーションはあまり重要でないという考え方が比較的主流だった(1970年頃まで)。

何十万人という従業員を要するアメリカ型の大企業が各国に支社をつくる。たとえば、IBMが日本IBMという現地法人を作ったように、巨大企業のミニチュア版を各国に作った。

大きいもが良いものだという時代が1980年頃まで続いた。

この流れを大きく変えた原因が、パーソナルコンピューター(PC)の登場。

コンピューター自体の歴史は古く、IBMが1950年頃から売り始めていた。1964年にIBMの「System/360」という機種は30年近く売れたコンピューターの歴史で最も有名な大型コンピューター。

大型コンピューターは大規模生産の時代のシステム。

その当時の大型コンピューターの能力は、今でいうノートパソコン以下。

メインメモリは数メガビット、磁気ディスクも何百台も並んでいても全部合わせて数ギガバイトしかなかった。

東大の大型計算機センターの磁気ディスクを全部合わせても数百ギガバイト。

今のパソコンは160ギガバイトのハードディスクのパソコンは普通にあるが、当時の東大の大型計算機センターの磁気ディスクもそのくらい。

月に宇宙船を飛ばしたアポロ計画で使われたIBMのコンピューターのメインメモリーは64キロバイト。

今、一般で使われているコンピューターは、かつてNASAが月に行く時に使っていたコンピューターよりもはるかに高い能力を持っている。

そのくらいの半導体の能力、集積度が急速に上がった。

かつては、東大の大型計算機センターのコンピューターを使いたい人は、使いたい時間帯を予約して行列になってお金を払って使っていた。コンピューターのある場所に人間が並んでいたという時代。

1970年の後半からはパーソナルコンピューターが登場し、それが変わった。最初はApple I(アップル ワン、1976年)やApple II(アップル ツー、1977年)がベストセラーになった。

しかし、一番大きなきっかけは、1981年に出た「IBM PC」。

皮肉なことに、大型コンピューターの最大のメーカーであるIBMが作ったパーソナルコンピューター「IBM PC」が、自分の会社を一時期は倒産の一歩手前まで追いつめるまでになった。

IBMのメインの商品は1台何億円もするような大型計算機だったが、IBM PCの性能がどんどん上がっていき、1980年代後半には大型計算機センターの奥に置いてあるメインフレームのコンピューターとほぼ同じ性能になってしまった。

1台20万円くらいのパーソナルコンピューターが1台何億円もする大型コンピューターと同じ性能になってしまうという、イノベーションの歴史の中でもまれに見るような急速な技術革新が起きた。革命的な変化。

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今まで、大型コンピューターというのは、IBMが設計したら、磁気ディスクもソフトウェアも周辺機器もIBM製を使うというように、すべてIBMが垂直統合するという方式だった。

これは自動車の世界と同じ。一時期のフォードはフロントガラスまで自社で作った。さすがにタイヤは他の会社が作っていたが、それ以外は全部自分の会社で作っていた。

同じように、IBMの「System/360」も全部自社で部品を作っていた。

それに対し、パーソナルコンピューター(PC)はバラバラ。Windowsに他社のソフトウェアを載せても動く。OSもLinuxでもいい。周辺機器はUSBでもハードディスクでも何でもいい。

つまり、今までの大型コンピューターのように、すべてをIBMがコントロールするというやり方ではなく、技術がバラバラになっていて、部品が世界中で手に入り、それを集めれば自分でコンピューターを作れるくらい、要素技術がモジュール化してバラバラに売られている。

たとえば、メモリを作るなら何十万人も雇う工場が必要なことは全くなく、メモリ専業のメーカーで作ればよい。ソフトウェアなら工場も必要ない。1人のエンジニアがいればソフトウェアは作れる。

つまり、技術の進歩と共に、規模がどんどん縮小してきている。

かつては、何万点という部品を経営者が全部管理して、大規模な工場で何十万人という人々が一斉に働かなければいけなかったのが、今はその必要性がない。

オープンソースのソフトウェアなんかは、皆が勝手にお金ももらわずに自分の家でソースコードを書いて投稿している。それがLinuxのソフトウェアになったりしている。

この場合には、規模の経済は全く意味がない。へたすると、規模が大きい方が動きにくくなる。

それをまさに示しているのがGMなど。GMはここ20年くらい慢性的に「潰れる、潰れる」と言われ続けるくらいダメ。なぜ、ダメなのかと言うと、大きすぎるから。あれほど大きい企業は必要ない。

現代のイノベーションにとっては、「大きいこと」は「良くない」こと。

なぜなら、情報革命によって、すべての部品はデジタルになって、取り替え可能になって、規格が全部標準化されて世界中でパーツが売っているという状態になったから。

ある意味では、工場が秋葉原の商店街とそれほど変わらないものになっている。そういう時には、大きい工場でものを作るということにたいして意味はない。

むしろ、大きな企業は経営者が官僚的になりがち。だから、新しいものをやろうとしても、「ダメだダメだ」とすぐに言う。官僚の人たちはダメな理由を見つけるのがすごく上手い。すぐに新しいもの(イノベーション)に対してダメだと言う。だから、そこから新しいものは生まれない。そして、皆、イヤになる。

インテルはAT&Tのベル研究所にいた人たちが、新しい会社を作って半導体を作り始めた。半導体はそれくらい小さな規模でも作れた。

マイクロソフトは最初は4、5人くらいの企業だった。今となっては時価総額ではIBMを遙かに上回る企業になっている。

これらはたった20年前の出来事。それくらい、情報通信革命というのは革命的にイノベーションを変えた。

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1990年から現代までのイノベーションは80年代の続き。それほど大きな変化は起きていない。

ただし、重要な変化があったのはインターネット。

TCP/IPというプロトコルは1970年代から国防総省で使われていた。そういう意味では、インターネットは30年以上の歴史がある割と古いプロトコル。

インターネットは技術ではない。TCP/IPは日本語とか英語といった言葉の一種、世界中のコンピューターで使える超簡単な言葉。

1970年代にアメリカの国防総省のネットワークを使っていた大学のコンピューターが使い始めた。

しかし、70〜80年代は、ほとんどの人はインターネットは知らなかった、注目していなかった。

IBMの社内ネットワークやNTTのデータ通信を典型とするそれまでのネットワークは、メインフレームのコンピューターがどっかに置いてあって、そこから専用線でつないで他の会社からリクエストを送って、バッチ処理した結果を送り返すという中央集権型のネットワークだった。

それに対し、インターネットの一番の特徴は、メインのコンピューターはどこにもない。

普通のコンピューターはコンピューターセンターにあるホストコンピューターに対して、ターミナル側(端末側)から「こういう計算をしてくれ」という要求を出す。

インターネットは要求を出す相手のコンピューターがない。

では、どうやってネットワークが動いているのかというと、それは誰にも分からない。

実は、自分が使っているコンピューターでやっている。

かつては、メインフレームでやらなければいけなかった仕事が、自分のノートパソコンでできる。だから、大型コンピューターとターミナルを結ぶようなネットワークはいらない。

自分のコンピューターで仕事を9割くらいはできる。他のコンピューターとつないでやるというのは、メールを出したりといった連絡するだけでよかった。

だから、ものすごく簡単な仕組みで最初はできた。

そして、ブラウザができた。ブラウザの原型である「NCSA Mosaic」が93年に開発されて、94年頃から世界に普及し始める。

1995年に「Windows 95」が出た時に、Windowsにはじめてブラウザが標準でついた。ISPに加入すれば、誰でもインターネットができるようになった。

ブラウザがもう一つの革命だった。

自分でホームページを作って自分の活動を世界に発表できるようになった。それまでは、そんなことはとても考えられなかった。

メインフレームのコンピューターがすべてを処理している時代には、メインフレームのコンピューターを使える人はごく限られた管理者だけで、一般ユーザーがそれを使うことはできなった。

それが、誰でも自分のコンピューターを使って、そこにホームページを作って、ユーザーが自分でイノベーションを起こすことができるようになった。

「End-to-end」(David Clark)”We reject kings, presidents and voting.”(我々は自分で自分を管理するのだ。)

かつての大型コンピューターの時代には、電話会社や大型コンピューターのメーカーがコンピューターをコントロールしていたが、インターネットの世界では、誰もネットワークをコントロールしない。しいて言えば、ユーザーがコントロールする。

インターネットは主人のいないネットワーク。ユーザーが主人になるネットワーク。ユーザーがイノベーションをするネットワーク。

このことが、イノベーションというものが持つ意味を180度変えたと言っていい。

「第3章 経済成長と生産性」に続く

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